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平成１１年５月の出来事・・・ 「ママ、ありがとうー」 息子が言い終わるか言い終わらないうちだった。ベランダで洗濯物を干している妻の目がみるみる潤んでいくのがわかった。「おいおい、よくそんな瞬間的に泣けるもんだな」そう思うか思わないかのうちに、今度は僕の目を通して見る妻の顔がみるみる潤んでいくのがわかった。 妻の泣き虫なのには困ったもんだ。そして、さらにその上をいく泣き虫な自分が居て、つまり、僕はその日、目を潤ませるのは２回目で、それが不思議と「恥ずかしい」と思わない、そんな日だった。 こんなことが我が家の玄関先で起こった『１時間前・・・』。 ＊ ＊ ＊ 今日は「母の日」である。息子も７月で４歳になる。何かさせるのもいいな。しかも妻には内緒で。 こういういたずらっぽいことが好きな僕は、２週間ごとに入れるガソリンの給油を、その日に限っては、息子とラブラドールのリブリィーと３人で行ってくるからと妻に告げた。いつもなら、週に１度の食料品の買い出しのついでに給油を済ませるのが常なのに、わざわざ妻を残して先に出かけるのは不自然かな、と思ったが、妻はなんとも思わなかったらしく「行ってらっしゃい」と笑顔で送り出してくれた。 ガソリンスタンドの店員さんには、少し買い物がしたいので、給油後車を１０分ぐらい預かってほしいとお願いした。僕と息子とリブリィーはそこから歩いて３分ほどの花屋さんに向かった。 「あのさあ、今日さあ『母の日』でしょ」 「うん。僕ね、幼稚園でママにあげるプレゼント作ったよ」 「そうかあ。でもね、『母の日』はママにお花もあげるんだよ」 「ふーん、何のお花？」 「カーネーションって言うんだ 買ってプレゼントしようか？」 「そうだね、プレゼントするー」 そんな会話をしながら、程なく花屋さんの前に着いた。 さあ、今日は妻を驚かすばかりでなく、息子にも「はじめてのおつかい」をしてもらおう。そのためには、リブリィーにも一役買ってもらわなきゃ。 「あのさあ、リブリィーはさあ、お店の中に入れないんだ。だから、パパとリブリィーは外で待っているから、一人でお花買ってこられるかなあ？」 「うん、いいよ」 意外とあっさり行く気になってるなあ。 「赤いカーネーション、１本下さい」って言うんだよ。 「わかった」 「１回練習で言ってごらん」 「赤いカーネーション、１本下さい」 「そうそう、じゃあ行っておいで」 とことことこ、と息子が入り口に向かって歩き出す。自動ドアが開き、息子が中に入ってドアが閉まる。スモークの貼られたドアで中はよく見えない。その瞬間「しまった」と思った。とんでもないことを息子にさせているのかな。お客さんがたくさんいたら誰が店の人なのかわかるだろうか。店の人に何も言えなくて泣いていたらどうしよう。それが後々まで辛い思い出となって残ったらどうしよう。 そういえば、こんな風景、こんな気持ち、前にもあった。 ＊ ＊ ＊ もう２０年以上前のことだ。 僕には歳が６つ離れた弟がいる。その日は弟がはじめて近所のそろばん塾に通い始める日だった。弟が小学２年生、僕が中学２年生の時。 店が忙しい両親に頼まれて、弟を塾へ連れて行くことになった。 僕にとっては６年間通った、よく知っている塾である。が、弟にとっては初めて行く場所だ。 案の定、入り口の前まで来て弟はもじもじしている。きっと弟はいっしょに中に入って欲しかったのだろう。 「お兄ちゃん、どうすればいいの？」 「開けて入っていけば先生がいるから」 「でも・・・」 「ほら、行っておいで」 返事をするわけでもなく、弟はちっちゃな勇気をふりしぼって、塾の扉を開け中に入っていった。 どうしてついて行ってあげられなかったんだろう。塾からの帰り道、僕は兄貴として「弟がお世話になります お願いします」と言えなかったことが悔しくて悔しくて、すごく自分が情けなかった。この気持ちは、後々までずっと僕の心に残った。 歳が６つも離れていて、赤ん坊の頃から知っている弟の幼いころの思い出は、自分の息子とオーバーラップすることがあって、タイムスリップをするときがある。 ＊ ＊ ＊ いろいろなことを考えながら、花屋さんの店の前で、それでも１分ほど待っただろうか。しかし、まだ息子は姿を見せない。僕にはすごく長い時間に感じられた。 僕は大急ぎでリブリィーをガードレールの支柱にしっかりと繋ぎ、店の中に入っていった。 レジの前に息子はいた。特に泣いているでも、困っているでもない様子だ。 「カーネーション、お店の人に頼んだの？」 「うん」 レジに居た女性の店員さんが、 「ええ、ちゃんとお聞きしていますよ、お父さん」 そうか、ちゃんと頼めたんだ。そうか。 「ええと、お金はお父さんでよろしいですか？」 「はい、おいくらですか？」 「２５０円です」 「偉かったねえ」 うん、本当に偉いぞ。がんばったな。そうか、そうか。 「お父さん、あの、お金、２０５円しかないんですけど・・・」 「えっ、あっ、すいません」 だって、財布の中のお金がにじんでよく見えなくて・・・。 ＊ ＊ ＊ 家に着いた。車を降りて、玄関へ続く外階段を上る。 「いい？ママにちゃんと言うんだよ」 「うん ただいまーっ」 「おかえりー」 妻はベランダで洗濯物を干している。 「ママ、ありがとうー」 息子が言い終わるか言い終わらないうちだった。妻の目がみるみる潤んでいくのがわかった。「おいおい、よくそんな瞬間的に泣けるもんだな」そう思うか思わないかのうちに、今度は僕の目を通して見る妻の顔が見る見る潤んでいくのがわかった。 母の日に父が泣いたのは、妻には内緒である。 |